大阪地方裁判所 昭和61年(ワ)7988号 判決 1988年8月26日
原告
同和火災海上保険株式会社
右代表者代表取締役
岡崎真雄
右訴訟代理人弁護士
山道昭彦
同
魚野貴美夫
同
中田明
同
平田大器
被告
株式会社トーメン
右代表者代表取締役
松本由之
右訴訟代理人弁護士
清木尚芳
同
射手矢好雄
同
松本岳
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、金一〇九一万一〇五九円及びこれに対する昭和五二年一二月二九日から支払済みに至るまで年五分の割合により金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 原告は、昭和五二年六月二八日、訴外有楽商事株式会社(代表者代表取締役德丸正昭、以下「有楽商事」という。)との間で、有楽商事所有に係る汽船第一一白鳥丸(総屯数499.11トン、以下「本件汽船」という。)について、原告を保険者、有楽商事を被保険者とし、保険期間を同日一二時(正午)から昭和五三年六月二八日一二時(正午)まで、填補の範囲を全損、救助費、共同海損、単独海損及び四分の四衝突損害賠償金(普通保険約款並びに特別約款による。)、保険価額、保険制限金額、及び保険金額をいずれも金七〇〇〇万円、保険料を金三九〇万二五〇〇円とする船体保険契約を締結した。
2 被告は、昭和四八年六月一八日、有楽商事に対して本件汽船を代金六四七〇万円で売り渡し、右残代金債権を担保するため、昭和五二年六月二八日ころ、有楽商事との間で、1の契約に基づく有楽商事の原告に対する保険金請求権のうえに、第二順位の質権設定契約を締結し、第一順位の質権者から海上保険証券を被告のためにも占有する旨の承諾を得た。
3 原告は、昭和五二年八月二二日、被告に対して、2の契約に基づく質権設定を異議を留めずに承認した。
4 本件汽船は、昭和五二年九月一五日、静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎沖海上において航行中沈没し、全損となった。
5 原告の高松支店長斎藤捨治郎は、右沈没事故の原因を調査した結果、これを通常の保険事故であると判断して、昭和五二年一二月二八日、1、2の各契約及び3の承認に基づき、被告の高松支店長深尾英五郎に対して、保険金として、金一〇九一万一〇五九円(以下「本件保険金」という。)を支払った。
6 ところが、右沈没事故は、真実は有楽商事代表取締役德丸正昭が原告から1の契約に基づく保険金を騙取する目的で本件汽船の船長らと共謀のうえ故意に惹起させたものであった。
このことは、後に司直の知るところとなり、右德丸らは、松山地方検察庁検察官によって昭和五八年九月七日ころ逮捕され、その後松山地方裁判所に起訴され、昭和五九年七月一九日松山地方裁判所において艦船覆没、詐欺の罪で懲役刑の実刑判決を受け、右判決は一審限りで確定した。
7 被告の高松支店長深尾英五郎は、本件保険金の受領に当たり、原告の高松支店長斎藤捨治郎に対して、「後日貴社に支払義務のないことが判明したときは、一切の責任を負い、保険金を返還いたします。」という文言(以下「本件誓約文言」という。)が記載された船舶保険金領収証に記名捺印のうえこれを差し入れ、もって、原告と被告との間で、不当利得返還義務の範囲について、現存利益の存否にかかわらず受領した金員全額及びこれに対する受領の日の翌日を起算日とする遅延損害金を付加して支払う旨の特約を交わした。
8 よって、原告は、被告に対し、不当利得返還請求権に基づき、金一〇九一万一〇五九円及びこれに対する右金員支払の日の翌日である昭和五二年一二月二九日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否及び被告の主張
(認否)
1 請求原因1ないし5の事実は認める。
2 請求原因6の事実は不知。
3 請求原因7の事実のうち、被告の高松支店長深尾英五郎が本件保険金の受領に当たり、原告の高松支店長斎藤捨治郎に対して本件誓約文言が記載された船舶保険金領収証に記名捺印のうえこれを差し入れた事実は認めるが、その余の事実は否認する。
(主張)
1 利得の不存在
被告が原告から本件保険金を受領したことにより、被告が有楽商事に対して有していた請求原因2記載の売買残代金債権も質権の実行として同時に弁済消滅したことになるので、被告には利得自体が存しない。
2 因果関係の欠如
被告は、有楽商事に対する質権の実行として原告から本件保険金を受領したのであるから、これは、実質的に見れば、原告が請求原因1の契約に基づいて有楽商事に保険金を支払い、この保険金を有楽商事が被告に対し右売買残代金債権の支払いとして交付した場合と全く同一視できるので、原告の本件保険金の支払いと被告のその受領との間には直接の因果関係が存しないものというべきである。
3 利得についての法律上の原因の存在
被告は、原告から本件保険金を前記質権の実行として受領するに当たり、本件汽船の沈没が有楽商事代表取締役德丸正昭らによって故意に惹起されたものであることについて善意であった。
ところで、右のような事案につき、最高裁判所昭和四〇年(オ)第二九五号同四二年三月三一日第二小法廷判決・民集二一巻二号四七五頁は、「金銭の騙取者がその金銭で自己の債務を弁済した場合において、債権者がこれを善意で受領したときは、債権者の右金銭の取得は、被騙取者に対する関係で、不当利得とならない。」と判示している。
また、最高裁判所昭和四五年(オ)第五四〇号同四九年九月二六日第一小法廷判決・民集二八巻六号一二四三頁は、「甲が乙から騙取又は横領した金銭により自己の債権者丙に対する債務を弁済した場合において、右弁済の受領につき丙に悪意又は重大な過失があるときは、丙の右金銭の取得は、乙に対する関係においては法律上の原因を欠き、不当利得となる。」と判示している。
ところで、本件においては、右判示事案と異なって、被告が騙取者を介さずに原告から直接本件保険金を受領しているが、これは、被告が質権者であったからに過ぎず、有楽商事代表取締役德丸正昭が原告から騙取した金員で被告に対する債務を弁済し、被告がこれを善意で受領した場合と実質的に何ら差異はなく、右判例理論がそのまま妥当するというべきである。したがって、右判示の趣旨理論によれば、被告の利得には法律上の原因が存在するというべきである。
4 本件誓約文言について
被告の高松支店長深尾英五郎と原告の高松支店長斎藤捨治郎との間には、本件保険金の授受にあたって船舶保険金領収証の受け渡し以外に何ら具体的な話し合いはなされておらず、また、本件誓約文言は、右領収証に単に例文として不動文字で印刷されているのみであるから附合契約におけるいわゆる例文に過ぎないものであって、不当利得返還義務の範囲についての特約としての効力は生じないというべきである。
仮に、本件誓約文言が原告と被告との間で特約としての効力を有するとしても、その趣旨は、原告が保険契約所定の権利義務以外の責任を負わないこと、又は、原告の保険金返還請求が理由のあるときに受領者が責任を負うことを注意的に約したに過ぎないので、不当利得返還請求権の範囲について、法定のそれを変更させるものではない。
更に、仮に被告が本件保険金について全額の返還義務があるとしても、その履行遅滞となった時期については、被告が現実に悪意になったときであるといわなければならない。けだし、本件誓約文言自体から、善意の保険金受領者に受領時からの遅延損害金支払義務を負わせる効力までも認めるのは、その文言に反し意思解釈における合理性の限度を超えているからである。よって、遅延損害金の発生時期は、被告が原告に本件保険金の支払義務のなかったことを知った時、すなわち、本件訴状が被告に送達された日の翌日である昭和六一年九月一七日というべきである。
三 抗弁
1 現存利益の不存在
(一) 被告は、請求原因2記載の有楽商事に対する売買残代金四二五四万円の債権を担保するため、昭和四八年六月一八日、德丸正昭との間で連帯保証契約を締結するとともに、有楽商事の所有に係る本件汽船について抵当権を設定し、次いで、同年七月六日、有楽商事の所有に係る汽船のじま(総屯数987.06トン)について追加担保として抵当権を設定した。更に、被告は、有楽商事が原告との間で毎年締結する船体保険契約に基づく保険金請求権のうえに、その都度、右売買残代金債権を担保するために質権を設定し原告より異議なくその承認を得て来ており、請求原因2の質権設定と同3の原告の承認もその一環としてなされたものである。
(二) ところで、本件汽船は、日本内航海運組合総連合会に登録されている積載登録屯数は六五〇トンで、右登録権利は、昭和五二年当時、一トン当たり六万ないし八万円で売買され、現在でも登録権利の相場は変っていない。したがって、本件汽船の登録権利は、三九〇〇万ないし五二〇〇万円の価値を有している。そして、有楽商事は、本件汽船の沈没後、その代替船の建造計画を建て、昭和五三年七月汽船第八昭栄丸(総屯数197.61トン、積載屯数665.00トン)を船舶整備公団と共有(有楽商事の持分は一〇〇分の三〇)で建造した。その後の昭和五五年一二月、有楽商事は、右持分を訴外山下汽船有限会社に売却した。
(三) したがって、もし原告が被告に本件保険金を支払っていなかったか、或いは被告が、原告に対して本件保険金の返還義務を負うことを知っていたならば、被告は、本件汽船の沈没後直ちに、物上代位により本件汽船の登録権利を差押えたり、或いは代替船である汽船第八昭栄丸に対する有楽商事の右共有持分を差押えるなどの方法により、有楽商事に対する売買残代金債権を保全ないし回収することが優に可能であった。
ところが、被告は、原告から質権の実行として本件保険金を受領したことにより、有楽商事に対して有していた右売買残代金債権が全額有効に弁済消滅したものと過失なく信じて来た。
この結果、被告は本件保険金の受領以外に何ら右債権の回収手段を取らなかったが、この間に、有楽商事及び德丸正昭は無資力となり、また、被告は商事会社であるところ、右売買残代金の最終弁済期である昭和五二年一二月末日から、商品売却代金の短期消滅時効(民法一七三条一号)による二年の、ないし、商事消滅時効(商法五二二条)による五年の各経過によって、被告の右債権の回収は事実上又は法律上不能に帰してしまった。
(四) このような場合、被告の右債権回収不能は被告が本件保険金を受領したことによるものであるから両者間には因果関係があることは明らかであり、被告には、本件保険金の受領に起因する返還すべき現存利益が存しないものといわなければならない。
2 民法七〇七条一項の類推適用
民法七〇七条一項は、他人の債務を自己の債務と誤信して弁済したときに、弁済受領者が誤信の結果、債権証書を毀滅し、担保を放棄し、又は時効によってその債権を失った場合には、弁済受領者に不測の損害を被らせないように、弁済者から弁済受領者に対する不当利得返還請求権を認めないこととした。
本件における前記1(一)ないし(三)のような事実経過のもとでは、原告は有楽商事の申告により保険金支払義務があるものと誤信して被告に本件保険金を支払い、他方、被告は有効な弁済があったものと誤信し、担保を放棄し、また、債権を時効によって消滅させてしまったのであるから、その立法趣旨に鑑みて民法七〇七条一項が予定する場合と極めて類似する。したがって、本件においても、同条項の類推適用によって、原告の被告に対する不当利得返還請求は認められないものといわなければならない。
3 消滅時効
(一) 原告、被告、及び有楽商事はいずれも商人であり、原告と有楽商事との間の船体保険契約(請求原因1)並びに被告と有楽商事との間の売買契約及び質権設定契約(請求原因2)はいずれも商行為である。なお、原告はいわゆる損害保険会社であり、被告はいわゆる総合商社である。
(二) 従って、原告の被告に対する保険金返還請求権も商行為によって生じた債権又はこれに準ずるものである。
(三) 被告が本件保険金を受領したのは昭和五二年一二月二八日であり、右の日から既に五年を経過した。
(四) 被告は、本訴第二回口頭弁論期日(昭和六一年一一月一二日)において、原告の被告に対する本訴請求債権の五年の短期消滅時効を援用する旨の意思表示をした。
四 抗弁に対する認否
1 抗弁1の(一)ないし(三)の事実については、いずれも不知である。同(四)は争う。
2 抗弁2は争う。
3 抗弁3の事実のうち、(一)の事実については認め、(二)の事実については否認する。
五 抗弁に対する原告の反論
1 現存利益不存在の抗弁に対する反論
(一) 有楽商事及び連帯保証人德丸正昭は、本件汽船沈没時には既に無資力であったので、本件保険金を受領する以外の方法によって被告が有楽商事に対する売買残代金債権を回収することはできなかったというべきである。したがって、被告に現存利益がないとはいえない。
(二) また、原告と被告間に交わされた本件誓約文言の趣旨は、被告に現存利益が存すると否とにかかわらず原告に本件保険金の支払義務がないことが判明したときは、被告は原告に対して本件保険金の全額を返還するというものであるから、被告の抗弁1は失当である。
2 民法七〇七条一項の類推適用の抗弁に対する反論
(一) 原告が被告に対して本件保険金を支払ったのは自己の保険契約上の債務が発生したと信じたからであって、他人の債務を自己の債務であると誤信したためではないから、本件において民法七〇七条一項の類推適用の余地はない。
(二) また、仮に同条項の類推適用の余地があるとしても、本件誓約文言は、被告に担保を放棄したりその債権を時効により消滅させたなどの事情が存在していても、被告は本件保険金返還の一切の責任を負うという趣旨をも含むものであるから、被告の抗弁2は失当である。
3 消滅時効について
(一) 原告の被告に対する本訴請求は、不当利得返還請求権に基づくものであり、これは法律の規定によって生じた債権であって、商行為によって生じた債権又はこれに準ずるものとはいえない。
(二) すなわち、大審院昭和一〇年(オ)第一二八〇号同年一〇月二九日第五民事部判決・法律新聞三九〇九号一二頁は、「商法第二百八十五条ノ適用アルヘキ債権ハ商行為ニ属スル法律行為ヨリ生シタルモノナラサルヘカラサルニ不当利得ニ因ル債権ハ法律行為ニ因リ生スルモノニ非サルヲ以テ其ノ当事者カ商人ナリトスルモ之ヲ商行為ニ因ル債権ト為スニ由ナキモノトス」と判示し(なお、右商法二百八十五条は現行法の商法五二二条に相当する規定である。)、また、最高裁判所昭和五三年(オ)第一一二九号同五五年一月二四日第一小法廷判決・民集三四巻一号六一頁は、「商法五二二条の適用又類推適用されるべき債権は商行為に属する法律行為から生じたもの又はこれに準ずるものでなければならないところ、利息制限法所定の制限をこえて支払われた利息・損害金についての不当利得返還請求権は、法律の規定によって発生する債権であり、しかも、商事取引関係の迅速な解決のため短期消滅時効を定めた立法趣旨からみて、商行為によって生じた債権に準ずるものと解することもできないから、その消滅時効の期間は民事上の一般債権として民法一六七条一項により一〇年と解するのが相当である。」と判示している。
(三) 右両判決の趣旨に照らすと、原告の被告に対する本件保険金返還請求権は、商行為によって生じたものでないことは勿論、有楽商事代表取締役德丸正昭らの原告に対する保険金詐欺という悪質な犯罪行為の結果生じたものであって、早期迅速な解決に値する商行為としての利益はないので、その立法趣旨又は公序良俗のいずれの観点からみても商事取引関係の迅速な解決のために特に定められた商法五二二条を適用する理由は全くなく、その消滅時効の期間は民事上の一般債権として一〇年と解するべきである。
第三 証拠<省略>
理由
一請求原因1ないし5の事実は当事者間に争いがない。
二請求原因6の事実について判断するに、成立に争いのない甲第五号証に弁論の全趣旨を総合すればこれを認めることができる。
三請求原因7の事実について判断する。
被告の高松支店長深尾英五郎が、本件保険金を受領するに当たり、原告の高松支店長斎藤捨治郎に対して、原告会社備付の用紙で「後日貴社に支払義務のないことが判明したときは、一切の責任を負い、保険金を返還いたします。」との本件誓約文言が横書の不動文字で印刷された船舶保険金領収証(甲第三号証)の下欄に記名・捺印のうえこれを差し入れた事実は当事者間に争いがない。
ところで、被告は、本件誓約文言がいわゆる附合契約における単なる例文であって何ら効力を生じない旨主張するので、この点について検討するに、右文言は、前記領収証の表面下欄に他の記載と区別して不動文字で明瞭に記載され、その趣旨も、海上保険会社においては、保険事故発生の場合、可及的速やかに保険金を支払うことが被保険者に対するサービスとして要請される一方、故意による事故招致者に対する保険約款上の免責利益を有するが、その調査立証が困難かつ時間を要するので、特段の疑いがなければ被災者等保険金受領権者にひとまず保険金の支払いを行い、後日損害填補義務のなかったことが判明した場合の保険金回収に備えて、善意の被保険者或いは質権者等保険金受領者が現存利益の消滅又は減少を理由とする不当利得返還義務の全部又は一部を免れようとするのを封じ、受領保険金の全額を返還せしむべく、返還義務の範囲について特約をしたと解するのが相当である(最高裁判所昭和四四年(オ)第七一二号同四六年四月九日第二小法廷判決・民集二五巻三号二四一頁参照)。
してみると、本件誓約文言は、その趣旨目的において右のような合理性があり、またその内容も無意義・無内容なものではなく、その文言も若干具体性を欠くものの右趣旨を看取し得るものであるから、保険金受領者側においてこのような文言の明記された領収証に記名・捺印してこれを保険者に差し入れた以上、その効果を排除すべき特段の事情のない限り、本件誓約文言を内容とする特約が有効に成立したものと解すべきであり、本件誓約文言をいわゆる附合契約における単なる例文と同視しその特約としての効力を否定することは相当でない。
なお、原告は、右特約における不当利得返還義務の範囲について、受領者において保険金額のみならず、これに対する受領の日の翌日を起算日とする遅延損害金を付加して支払う旨の特約をしたものと主張するが、本件誓約文言の右趣旨及び同文言中には「一切の責任を負い」と記載されているにすぎないことなどに鑑みると、悪意の受益者(民法七〇四条)と善意の受益者とを全く同視する右のような解釈を導くのは相当でなく、原告の右主張は採用できない。
四次に、被告の主張について判断する。
被告は、縷々述べて、本件保険金を受領した結果、有楽商事に対する売買残代金債権が弁済消滅したので利得が存しない旨、或いは被告の質権に基づく本件保険金の直接の取立は、実質的には有楽商事が一旦受領した本件保険金を被告に売買残代金債務の弁済金として交付したのと同一であるから、被告の利得と原告の損失との間には有楽商事が介在していることになり直接の因果関係が存しない旨それぞれ主張する。
しかしながら、前記一、二の事実によると、被告は、有楽商事代表取締役德丸正昭が騙取した本件保険金を質権の実行として原告から直接受領することによって債務の弁済を受けたと誤信していたにすぎないが、同質権の実行は無効に帰したのであるから、被告の同商事に対する債権も質権も右受領によって失ってはいないことになる。したがって、被告の利得に関する右主張は、その前提を欠き理由がない。
また、被告の質権に基づく本件保険金の直接の取立は、一面において、原告に本件保険金相当の損失を生ぜしめ、他面において、被告に右に相当する利得を生ぜしめたものとして、原告の損失と被告の利得との間に直接の因果関係が肯認できるので、被告の因果関係に関する主張は理由がない。
更に、被告は、本件は、有楽商事が騙取した本件保険金により同商事から直接売買残代金債権の弁済を受けたのと同視できる事案であるが、右弁済受領の際被告は善意であったのであるから、被告の本件保険金の取得には法律上の原因があった場合に該当し、被騙取者たる原告との関係でも不当利得を構成しない旨主張する。
しかしながら、被告がその根拠とする前掲各判例は、いずれも金銭の騙取者ないし横領者に一旦金銭が交付された後、これらの者から右金銭を債権の弁済金として受領した者の不当利得の成否が問題となった事案に関する判例であって、右中間者の介在しない本件とは事案を異にし、また実質的に考察しても、本件は右判例の法理を適用すべき事案とは解されない。
本件においては、被告は、前記のとおり、原告には本件保険金の支払義務がないにもかかわらず、質権の実行として直接の取立権に基づいて原告から本件保険金を受領したものであるから、原告は、保険約款上の免責条項を含め保険者に対抗しうるすべての事由(保険抗弁)を本件保険金の受領者である被告にいわゆる物的抗弁として対抗することができ、客観的にみて被告の本件保険金の受領が法律上の原因を欠く以上、被告の善意・悪意等その主観を問題にするまでもなく、被告は原告との関係で本件保険金につき不当利得を構成するものと解さざるをえない。
したがって、被告の右主張は理由がなく採用できない。
五そこで更に、抗弁1(現存利益の不存在)及び抗弁2(民法七〇七条一項の類推適用)に対する判断を暫く措き、被告が本件第二回口頭弁論期日において援用した五年の商事消滅時効(抗弁3)の成否について判断する。
原告、被告及び有楽商事がいずれも商人であり、原告と有楽商事との間の船体保険契約(請求原因1)並びに被告と有楽商事との間の本件汽船の売買契約及び質権設定契約(請求原因2)がいずれも商行為に属すること(抗弁8(一))は当事者間に争いがない。
ところで、商事取引活動の迅速な結了のため短期消滅時効を定めた商法五二二条の立法趣旨に鑑み、同条の適用又は類推適用されるべき債権は商行為に属する法律行為から生じたもの又はこれに準ずるものと解すべきである。
また、不当利得返還請求権は法律行為によって生ずるものではないが、不当利得制度自体が当事者間の不当な財産法秩序の回復と当事者間の公平の実現を目的とするものであり、特に当事者間の契約上の義務履行としてなされた財産的利益の移動(給付)がその原因行為の無効等の理由により法律上の原因を欠くこととなった場合に生ずる不当利得返還請求権は、契約の履行によって生じた法律関係の清算を目的とするものであるから、その性質・内容を確定するに当たっては当該契約関係が当然に考慮されるべきこととなる。そうすると、消滅時効の期間についても、このような場合の不当利得返還請求権については、右契約が商事取引に関連する場合には、右の清算関係についても早期に迅速な結了が要請されることとなるので、商事債権ないしはこれに準ずるものとして、一〇年の民事消滅時効ではなくて、五年の商事消滅時効の規定が適用されるべきものと解するのが相当である(最高裁判所昭和五三年(オ)第一一二九号同五五年一月二四日第一小法廷判決・民集三四巻一号六一頁も、商行為に関して生じた不当利得返還請求権のすべてについて、同条の適用ないし類推適用を否定した趣旨とは解されない。なお、右のように解すると、不当利得の返還と契約解除による原状回復との間に差異はないことになるが、最高裁判所昭和三三年(オ)第五九九号同三五年一一月一日第三小法廷判決・民集一四巻一三号二七八一頁は、商事契約の解除による原状回復義務が商法五二二条の商事債務たる性質を有するとしている。)。
これを本件についてみるに、前記認定説示のとおり、被告は、有楽商事に対して有する本件汽船の売買残代金債権を担保するため、同商事から同商事の原告に対する保険金請求権について質権の設定を受けていたところ、昭和五二年九月一五日、被保険者である同商事の代表取締役德丸正昭らが保険金詐欺の目的で本件汽船を故意に沈没させ、同年一二月二八日、保険者である原告がその事実を知らないで質権者である被告に本件保険金を支払ったが、その後右詐欺の事実が司直の知るところとなり、德丸らは、昭和五九年七月一九日、松山地方裁判所で有罪判決を受けたのであるから、原告は被告に対し本件保険金の支払義務がなかったのであり、したがって、同保険金の支払いは法律上の原因を欠くこととなるので、右保険金支払の時点で、原告は被告に対し、不当利得返還請求権に基づき本件保険金の返還を求めることができたものと解される。
ところで、前記認定説示のとおり、原告、被告及び有楽商事はいずれも商人であり、原告と有楽商事との間の船体保険契約並びに被告と有楽商事との間の本件汽船の売買契約及び質権設定契約はいずれも商行為に属するものであり、しかも、右保険金の支払は原告の同商事に対する右商行為としての保険契約の義務の履行としてなされたものであるが、被告は、同商事との間における右商行為としての質権設定契約から生じた直接の取立権に基づいてこれを受領したものである。すなわち、本件保険金の給付は、その基礎的法律関係においていずれも商行為を原因とするものであり、被告の原告に対する本件保険金請求権は商行為に属する法律行為から生じた債権として迅速な解決のために商法五二二条の適用を受けることは明らかである。
そうすると、原告の被告に対する本件保険金返還請求権は、右商行為に基づく財産の移動によって生じた不当な財産状態を正常な状態に回復すること、すなわち、右商行為に基づく不当な法律関係の清算を目的とするものであって、本件保険金請求権とはその基礎的法律関係を共通にして裏腹の関係にあって迅速な結了が要請されるものといわざるをえない。また、これを実質的にみても、被告としては本件保険金を受領したことにより売買残代金債権の弁済を受けたものと信じて、本来の質権設定者である有楽商事に対する右債権の回収を怠り、これに対する人的、物的担保を放棄し、或いは取引に関する証拠資料を散逸させ、更に右債権を短期消滅時効にかからせてしまうことも容易に予想されるところであるから、右原因債権のみならず本件保険金の不当利得返還請求権についても早期の迅速な結了の要請はひとしく妥当するものということができるのである。このことは商法の他の条文、すなわち、保険金支払義務等について一年ないし二年の短期消滅時効を規定した商法六六三条の法意等に照らしても明らかである。
なお、原告が損害保険会社で被告がいわゆる総合商社であることを考慮すると、右のように解することが当事者間の正義・公平に反するものとはいえない。また、原告の被告に対する本件保険金の支払いが德丸らの犯罪行為に起因するものであって、これに基づいてされた本件保険金の保持自体が公序良俗違反ないし強い違法性の評価を受けるものであれば、不当利得又は消滅時効とは別途の考慮がなされるべきものである。
したがって、本件保険金返還請求権については、商事取引関係の迅速な解決の要請が働くものといわなければならず、これが商行為に属する法律行為によって発生した債権に準ずるものとして、商法五二二条が類推適用され五年の消滅時効にかかるものと解するのが相当であり、その消滅時効の起算点は、本件保険金の支払時点である昭和五二年一二月二八日からと解すべきであるから、同債権は同日から五年の経過により既に時効消滅したものというべきである。
六以上の次第で、その余の点について判断するまでもなく、原告の被告に対する本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小林一好 裁判官小澤一郎 裁判官光本正俊)